めずらしい愛知川町のびん細工手まり工芸 | | びんの中におさまったふる里の伝統のてまり! めずらしい技が滋賀県愛知川町に伝わっています。 一時期この伝統工芸が途絶えそうになりましたが、愛知川町では しっかりとこの伝統の技を守っています。 びん詰め細工では、帆船の入ったものを見かけますが 愛知川町のびん手まりの作り方は違います。その製法は意匠登録されているようです。 刺繍されたてまりをビンの中に入れます。 びんの口から手まりがはいる仕掛けが面白いですよ。
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明治の初めの頃、お針教室を開いていた野田操さんが本格的なびん細工手まりを手がけたのではないかと言われます。野田操さんは、母親から教わったびん細工をかわいがっていた生徒にこっそり教えていたそうです。野田さんの教え子のひとりの青木ひろさんは、14歳でびん細工を習い70年あまりこつこつとびん細工手まりを作りました。手まり作りには根気が必要です。昭和40年代には、青木さんただ一人が、この技の継承者になりました。 現在、全国でもきわめてめずらしいびん細工に、愛知川町の人々たちが郷土のほこりをかけて、保存に努めています。 |
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びんの中に収まるには・・・・びんの口は直径3cmほどです。直径12cmの手まりが入るはずがありません。12cmの手まりが3cm弱の大きさになればびんに入ります。手まりの芯とまゆ玉に秘密がありました。 芯とまゆ玉がなければびんの中に入ります。中に入ったあと再び、芯とまゆ玉を手まりに収めれば”びん細工手まり”ができあがります。理屈は解ってもどうして作るのでしょうか。どうしても知りたい方は、滋賀県愛知川町まで訪ねてください。 |
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| ●南部姫鞠(青森県八戸市) | 八戸は、日本の手まりの最北端と考えられています。かっては八戸くけまりと呼ばれ、紙や布を固く丸めて芯にし、くけ縫い用いた後のくけ糸を幾重にも巻き上げ、木綿糸で刺繍がほどこされた素朴な手まりが作られていました。 この手まりは、南部地方の祖である南部氏がこの地方に城を築いた頃から伝わる「菱形模様」を題材に創作されお祝い事の贈り物に用いられています。 |
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| ●本荘ごてんまり(秋田県由利本荘市) | 本荘ごてんまりは、慶長17年(1612)楯岡満茂が本荘城に移封された際に御殿女中が伝えたという説と、元和元年(1615)本荘初代城主の六郷氏が常陸の国から転風されてきた時、この手まりの製法が伝えられたという説があります。 土地特産のゼンマイ綿を芯にして絹の色糸で美しい模様をかがっています。 由利本庄市では、てまり文化を継承し、さらにその技術を高めることを目的とし、毎年「全国てまりコンクール」開催しています。 |
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| ●御殿まり(山形県鶴岡市) | 鶴岡の酒井藩では、江戸時代、酒井忠次に使えた御殿女中が城暮らしのつれづれに手まりを作って楽しんだことが名前の由来です。 北国の雪深い環境と根気強い婦人気質の相まって、繊細で色鮮やかな独特の美しい手まりが知られています。久しく続いた御殿まりつくりの風習も明治維新の封建制度の崩壊により、武家の習わしとともに廃絶し、一部旧藩士の家にその技法が伝えられるだけになろました。 鶴岡の上野富美さんは、幼い頃祖母から伝えられた作品と技法をたよりに、作品の再現に成功しました。かっては蛤の貝殻に砂を入れて、これを細かいおが屑で包み、さらにその上にぜんまい綿でくるみ、五色の綾糸でこれを巻いて仕上げました。まりを突くとカラカラと愛らしい音を発し、ぜんまい綿の弾力でよく弾みます。 現在では、中心部は空洞の木型で、これを紙で貼りその上から絹糸またはリリアン糸で巻いています。 |
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| ●栃尾てまり(新潟県栃尾市) | 越後地方のてまりは、良寛の歌にも詠まれています。 霞たつ ながき春日を 子供らとてまりつきつつ この日くらしつ 栃尾市は栃尾紬で知られる機織りの町です。山間のの村では養蚕が盛んでした。戦前は各家に手機があり、くず糸も多くあり、このような糸を利用しててまりが作られました。 玩具として、また幼児がてまりのように丸々と丈夫に育つようにとの願いをこめて、祖父母から孫へと節句やお祝い事の贈り物として用いられていました。 のらこ・ぎんなん・けんぼろ・じしゃの実・はとむぎ・大豆。じゅず玉の七種を七福になぞらえて、透かし俵栗の木につく蚕のような虫の殻にいれて、ぜんまいの綿毛に包んでてまりの芯にします。ぜんまいの綿で”み”を包むのは身を守るというお守りの意味もあります。それをくず糸をつなぎ合わせた糸で巻きます。色とりどりに染めた絹糸で華やかにかがり、長い房をつけたてまりは、節句に飾りました。ついて遊ぶてまりは丈夫な木綿糸でかがりました。 |
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| ●野州てんまり(栃木県宇都宮市) | 栃木県は結城紬や真岡木綿などの産地として知られ、絹糸や木綿糸などの素材が豊富です。また宇都宮市は日光街道の重要な宿場町であり徳川譜代の重臣が封じられた城下町でもあり、御殿女中によって手まり作りが行われました。 現在、中山春枝さんが主宰する「宇都宮てまり舎」によって製作されているてまりが、野州てまりと名付けられています。 近郊の山や林から椎や栃の木の実を拾い、苔やぜんまいの綿毛を採って丸めた土台を芯にとし、草木で染めた木綿や絹糸で丹念に彩りをかがっています。 |
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| ●松本てまり(長野県松本市) | 松本てまりは、信州松本において江戸時代の松本藩の女性の指先から生まれたもので、当時の女の子の玩具として用いられていました。その技法はなお連綿として伝えられています。 松本市博物館には約200年前のものが保存されています。 昔は、芯に山蚕(やまこ)を入れ、回りは弾みを良くするためにモスなどの毛類を固く丸め、その上を薄く綿でくるみ、さらに周りをツナギと称する木綿糸でぐるぐる巻き、丸いまゆ玉をつくりました。 まゆ玉に二色か三色の木綿で麻の葉などの模様をかがりました。 現在は、薄いボール紙でサイコロのような箱を作り中に小鈴を入れて芯にし、それを布団綿で固く包み、しつけ糸で粗くからげてまとめます。その周りを脱脂綿で薄く包み、白のしつけ糸でまんべんなく固くからげながら球形に整え白いまゆ玉を作ります。 まゆ玉に黄色などの目立たない糸で球の表面を割り付け(面取り)、それを基本ににして模様をかがっていきます。 |
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| ●須坂の手まり(長野県須坂市) | 須坂市は、明治時代から製紙工場が多い土地で、そこであまった糸てまりの材料として使われました。小石を入れたしじみの貝を水にぬらし和紙でくるんで、固く丸めて乾かします。乾いたらぜんまいの種につく綿毛を丸く包みその上から全体が丸くなるように茶色の木綿糸で巻き付け、様々な糸の木綿糸で模様を作ります。 制作者の古田のりさんは、お母さんからてまりの作り方を習いました。お母さんが小さい頃、母親が、菜の花の季節がすぎた後、斑尾山に燃えだすせんまいの綿を採って干し、それを芯にして着物やふとんなどの抜き糸を巻き、その上を機織りの残り糸でかがってくれたそうです。 現在でも昔ながらの作り方を守っています。実際につくこともできる貴重な手毬です。 |
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| ●加賀てまり(石川県金沢市) | 江戸時代に加賀藩の城下町から広がった手まりです。 少女たちは正月やひな祭りには、母親から手作りのてまりで楽しみまた成長すると母親から習って自分で作った手まりをお嫁入りの時に持って行きました。 母親が、自分で作ったてまりを魔除けとして持たせるという習慣もあったそうです。 |
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| ●小松の口かがり糸まり(静岡県浜松市) | 浜松市小松は機織りの町であり、そのくず糸を利用し古くからてまりが作られていました。そのてまりを竹内ちょうさんが(明治20年生まれ)が発展させ現在は娘の堀内正子さんが受け継いでいます。 てまりは一般的に針を使って糸をかがっていきますが、このてまりは、糸の一端を口にくわえて巻いていきます。芯の上に白糸を巻いて丸く形を整えまゆたまとし、紫・桃色・青・うす青・赤・黄・茶・にぶ茶・緑の9種類の糸でかがっていきます。左右非対称の柄が特徴です。 |
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| ●松山姫てまり(愛媛県松山市) | 松山の姫てまりは、万華鏡のような色艶の鮮やかさが特徴で、”幸福のまり”として古くから伝わっています。”まるくおさまる”、”まるまる子供が育つ”という意味をこめて結婚や出産のお祝いに用いられています。 芯にはかってはおが屑が使われていましたが、現在は発砲スチロールが使われています。赤く染めた綿をかぶせて赤い糸で巻いていきます。黄糸で下巻きし、等分に糸で目印をつけ、色糸を幾重にも巻き幾何学模様をつくります。リリアンの房をつけてできあがりです。 |
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| ●紀州てまり(和歌山県田辺市) | 「まりと殿様」で歌われた紀州てまりは、紀伊徳川家の藩祖徳川頼宣(1602~1671)が紀州に封じられた時、中央の技法が取り入られ発展したと言われます。 特に和歌山県海岸線の中央部に位置し熊野詣でも有名な田辺市に多く残っています。しかしこの手まりも昭和の初期頃から忘れられ、その作り方を知る者は数少なくなってきました。 現在「紀州手まり研究会」が発足し、神社仏閣や旧家に保存されている紀州てまりの模写復元に努めています。 |
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| ●博多てまり(福岡県福岡市) | 博多まりは、かって福岡甘木支藩に伝わっていた博多織の端糸を活用とした秋月まりの伝承を中心に製作されています。 結城琴子さんを代表とする「伝承てまり保存会」で技の継承が行われています。 |
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| ●肥後てまり(熊本県熊本市) | 肥後てまりは、城の中で女性たちの手仕事として始まりました。木綿が庶民の手に入りやすくなった江戸中期には、女子の玩具として盛んに作られました。 1956年(昭和40年)頃、当時熊本国際民芸館館長故・外村吉之助が全国各地で作られてい手まりの中から13種類の模様を選び、木綿天然染料染めの糸でかがったまりを肥後てまりと名付けました。現在当初から手まり作りを続けている山隅政子さんを中心に肥後手まりの会で製作活動が行われています。 もみがらを芯にして、模様は、椿・麻の葉・重ね三角・三角づくし・帯・熨斗(のし)・四国まり・風車・連角・角花火・秋桜・春雨の13種です。 |
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| ●南蛮手毬(熊本県本渡市) | 南蛮風の華麗な色彩で、装飾用として現代風の意匠を凝らした南蛮手毬は、古くは少女たちの正月の遊びとして親しまれていました。 明治に入りゴムまりの普及とともに次第に制作者が減少し、昭和30年代には、天草に住む人々にひっそりと作られていたようです。昭和39年、本渡市婦人会がこの伝統玩具を復活させ、現在は「天草てまりの会」会員によってその伝統が受け継がれています。 以前はもみがら、綿、などを芯にしていましたが、現在は市販の発砲スチロールの土台まりを使用しています。リリアン糸を布団針に通してかがります。 南蛮手毬には次のような伝承があります。 天草の乱の総師は16歳の天草四郎ですが、中国から渡ってきた手毬を気に入りいつも手元に置いていました。四郎は、四郎に想いを寄せる人に「この手毬は私の思いがこもっている」と手毬を渡しました。原城で悲運の最期を遂げた四郎に、想いを寄せた人は断崖から海へ身を投げようとしましたが、ふと手毬のことを考えて思いとどまります。その後手毬をつくりながら一針一針毎に愛人四郎を偲び一生を終えたそうです。 天草の娘たちは正月に手毬を作り手毬歌に合わせて遊びをします。 海を渡った四郎さま 赤い夕陽に天草を なんどみられた ことかいな 若き命を四郎さま 青い手毬をつきながら 偲べばあわれ 原の城 |
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●松江御殿まり、松江てまり、松江和紙てまり・藍てまり(島根県松江市) | | | | 十二面和紙てまり(12ヶ月の花) | 一面麻の葉(桜)和紙手まり | 藍手まり・亀甲刺し |
| | 島根県は中央から隔絶した位置にありますが、古代において出雲文化が花を開きました。人々は古い習俗を大事にし、”島根は郷土玩具の宝庫”とも言われます。 水の都の松江市でも手まり作りが盛んです。御殿まり(糸まりともいいます)の伝統を継承するもの、装飾を施した松江手まりや又御殿まりのかがりの技に工夫を施し40年程前に誕生した和紙手まり・藍手まりがあります。伝統を継承する手まり・新しい工芸の道を切り開く手まりが松江市にはあります。 松江和紙手まりは、昭和62年全国観光土産物展において最優秀日本商工会議所会頭賞を受賞。松江藍手まりは、平成元年本庄市観光協会長賞受賞。 松江和紙手まりは、面取にかがりの技を用い、四季折々の草花を出雲民芸紙で表現したものです。いつまでも色あせず優しさを伝えます。松江藍手まりは、日本古来の文様を広瀬絣の藍糸のグラデーションで表現したものです。幾何学的な数々の文様が鮮明に描かれ、新しい手まり工芸を築きつつあります。 |
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